ハリウッド映画史上最高傑作といわれる映画『市民ケーン』は、いまもなお多くの映画ファンを魅了しつづけています。Bunkidoでは、当作品の日本語吹替版および日本語字幕版をご用意しておりますので、さまざまな上映形態に対応可能です。この機会に『市民ケーン』の上映会を企画してみてはいかがでしょうか。
●天才オーソン・ウェルズの驚くべきキャリア
オーソン・ウェルズほどに天才の名をほしいままにした映画人を知りません。多才にして異才、独創的な革命児。シェイクスピア劇で培った作劇の名手でもあり、鋭い人間洞察力によって深遠な物語を紡ぎ出してきました。天才という名にふさわしい監督としてオーソン・ウェルズの右に出るものはいないと言っても過言ではないのかもしれません。
映画界にデビューする前の演劇・ラジオ時代においてもウェルズの才知に多くの人々が驚嘆しました。キャリアの最初は意外にも執筆業、18歳の頃です。また同じ時期にシェイクスピアの叢書の前書きを執筆しながら数千にも及ぶ大量の挿絵を描いています。その叢書は何十年も版を重ねることになりました。ウェルズは画家を目指していた時期もあったのです。その後、ラジオの俳優となり、あっという間に人気を博しました。ラジオ全盛時代のことです。大きな反響となりましたが、ウェルズはラジオに飽き足らず演劇界にも足を踏み入れその分野においてもあっという間に頭角を現します。ラジオにおいても演劇においても、ウェルズはその多才な才能を活かし企画から脚本、演出、俳優にいたるまですべてをこなしていました。特筆すべきは彼の独創性です。当時公民権が与えられていなかった黒人の演者たちで構成された『マクベス』や現代に舞台を変えて反ファシズムを謳った『ジュリアス・シーザー』など、その独創性は当時から伝説となりました。ラジオにおいても演劇においても、過去のラジオドラマや演劇とは次元の違うクオリティを目の当たりにした多くの人々は、彼を天才と称えることになりました。
とりわけCBSラジオにおける『宇宙戦争』(原題:”The War of the Worlds”)の話はあまりにも有名です。臨時ニュースを織り込んだリアリティの高い構成は、宇宙人が本当に侵略しているのではないかとニューヨーカーたちの一部を震え上がらせたという伝説をつくることになりました。そんな伝説は当時のヒットラーの耳にもはいるほどであり、その才能を映画界が黙って見ているわけがありませんでした。
●映画デビュー作にしてハリウッド映画史上最高傑作の『市民ケーン』
ウェルズは、三顧の礼をもってハリウッドに招かれます。映画会社のRKOは、映画において全く実績のないこの新人に対し、企画から脚本、監督、俳優に至るまでを任せるだけでなく配役やスタッフの選定の自由も与えました。そして何よりも作品の最終編集権を授けることに同意したのです。それは新人にとって破格の契約というものに留まらず、ハリウッド映画史において最も高い権利を勝ち取った契約であったと言っても過言ではありません。
新聞王ケーンが「バラの蕾(つぼみ)」という謎の言葉を残し臨終を迎えるところから物語は始まります。その謎を追う記者の目を通し、いくつもの取材者から得た証言をもとに新聞王ケーンの半生を追いつつ、ひとりの孤独なメディア王の実相へと迫っていきます。
ケーン像について様々な角度から重層的に語られる様は、人間というものがいかに複雑であって単純化できるものではないことを教えてくれます。このような映画は過去のハリウッド映画には類をみることがありませんでした。
また映像も様々な工夫が施され常識を超える撮影が行われました。そのなかで最も革命的であったのはパンフォーカス(画面すべてに焦点を合わせるカメラ技法)を導入したことでしょう。いまではテレビドラマやバラエティではパンフォーカスがむしろ当たり前となり日常的な映像となっていますが、当時の映画の技術では、カメラがフォーカスできるのは一部だけでした。近影にフォーカスすれば後景がぼけます。後景にフォーカスをすれば近影がぼけています。そのためふたりの演技を追いかける場合、同じ位置にいなければカットを分ける必要があったのです。しかしこれを克服することによって、一つのカットにおいて、複数の俳優のやり取りや表情の変化を表現できる自由を得ることができるようになりました。緊迫した俳優たちの表情を、カットを割らずに表現できることで高いリアリティの醸成へとつながったわけです。
独創的な語り口や斬新な撮影方法によって繰り出された画期的な映像の数々は、当時の映画関係者や評論家たちから絶賛をもって迎えられました。現にアカデミー賞では11部門にノミネートされるほどでしたが、実際に受賞することができたのは、脚本賞だけに留まりました。一部では組織票が動いたのではないかと疑われています。
以下は、『PMマガジン』のセシリア・エイガーによる批評ですが、映画体験の質が全く変わってしまったと吐露するこの文から、この映画が当時いかに衝撃をもって迎えられたかが如実に伝わってきます。
「『市民ケーン』以前の映画は、巨大な力を持ちながらも怠惰に眠りつづけるモンスターのようなものであった。ただ横たわりながら、猛々しい若い男が横腹にキックを与えることで命を吹き込み、その可能性に目覚めさせてくれることを待ち望んでいるモンスターのようであった。『市民ケーン』を観たあとでは、過去に本当に映画を観たことがあったのかと錯覚に襲われるほどであった。」
※参照元 Kael, Pauline (February 12, 1971). “Raising Kane”. The New Yorker.
ウェルズは、革命的な演出によって舞台やラジオドラマを一段上のランクへと引き上げることに成功しましたが、初めて演出した映画においても同様に革命を引き起こし従来とは全く異なる映画の地平を切り開くことに成功したわけでした。
●オーソン・ウェルズが唯一自由につくった最初で最後のハリウッド映画
この映画は、批評家たちの絶賛とは裏腹に興行収入がふるうことはありませんでした。主人公のモデルとされるメディア王ウィリアム・ハーストにこの映画の存在が耳に入り、ハーストの逆鱗に触れることになります。ハーストは自身のもつ新聞社やラジオ局などのメディアにおいてこの映画の広告も情報を一切掲載しないことを宣言、また自身の紙面の評論家たちにはウェルズを徹底的にこきおろすように指示しました。『市民ケーン』の劇中で表現されていた新聞王の傲慢な圧力行為が、実際に作者のウェルズに向かって行われたというのはなんとも皮肉な話です。
ハーストからの圧力に恐れをなし多くの劇場は公開を見合わせました。本社で行うはずのプレミア上映(舞台挨拶が用意された初日の上映)も、ハーストからの名誉毀損を恐れるRKOの上層部によって中止が言い渡されました。そのため興行収入は目も当てられないほどに低調 となりました。
オーソン・ウェルズのハリウッド時代の頂点といえる時期はこの映画の編集を終えた僅かな時期であったのかもしれません。ウェルズ本人は特定の人物をモデルにしたわけではないと語っていますが、周囲は明らかにハーストに喧嘩を売るような無謀な企画を立てたウェルズに対して問題視し始めました。興行的失敗の責任は一方的にウェルズにあるとされ、彼に保障されていた最終編集権は剥奪されることになりました。その後、『偉大なるアンバーソン家の人々』、『ストレンジャー』、『上海から来た女』などの作品を撮りましたが、そのほとんどの作品は、会社上層部から多くのシーンをカットされ無惨な状態で繋ぎ合わされました。
オーソン・ウェルズは、1950年、ハリウッドを見切り、ヨーロッパに移ります。ヨーロッパでは自由な映画づくりが担保された反面、資金難に苦しみ続けることになりました。天才が残した映画はごく限られることになりました。ハリウッド時代は7本の映画をつくりましたが、本人が納得できる出来となったのは『市民ケーン』一本だけでしたし、ヨーロッパに移ってから亡くなるまでの35年間で撮ることができた映画は僅かに6本だけです。そのうちの一本は短尺のテレビ映画です。
長く映画界にいたオーソン・ウェルズですが、豊富な制作費をもとに巨大スタジオという絶好の環境のなかで、思う存分にその才知を活かして制作に挑むことができたのは、デビュー作の『市民ケーン』だけでした。
上映会のご提案
米国の映画批評家などによるオールタイムベスト100の企画があると常にNo.1に輝く『市民ケーン』はハリウッド映画の最高峰と呼べるものです。天才オーソン・ウェルズの偉業を確認するうえでも必見の映画です。今年はオーソン・ウェルズが生誕して110年にあたります。この機会にぜひ『市民ケーン』の上映会の企画を立ててみてはいかがでしょうか。上映権の料金については、お問い合わせフォームよりご連絡ください。上映規模に応じて、現実的な上映権料をご案内いたします。